最近思うのは,人に散々迷惑かける人が,その行為を注意されると逆切れして被害者しぐさするってのが横行しているような気がします。あのメンタリティーは何でしょうね。なんで自分に非があるのかどうかって顧みることができないのでしょうか。おそらく子供のころからそういった振る舞いをしてくる大人が多く,しかもそういったことが許される環境にいたら潜在的にそれはOKなんだということを認識されるのかもしれませんね。知りませんが(笑)
さて今回は,昨日話題になった近衛文麿。評価が両極に分かれる人物の中の代表的な一人だと思います。平和を好んだ善人だったのか,それとも日本を戦争に導いた悪人だったかという感じで。
近衛家はご存じの通り五摂家の筆頭の家柄で,近衛文麿は究極のお坊ちゃまでした。ですから,子供のときから年初のあいさつなどで,時の大臣たちが子供である自分にあいさつするわけですが,そのことに違和感を持ったり,また世の中のことを勉強すると,日本のほとんどの人が自分とは違う境遇であるということに疑問を持つようになってきたらしいのです。自分はこんだけ恵まれているのに,大多数の人はまったく違うどころか,毎日の生活に苦しんでいるということに。
それを改善するためにはということで,東大在学中に『貧乏物語』で有名な河上肇がいた京大に転学します。どうもここでマルクス経済や部落解放などに傾倒し,共産主義への考えが大きくなったのかもです。無垢なお坊ちゃまにはよくあるみたいで,なんで自分だけが恵まれて他の人が苦しむのだろう、そしてそれを改善するには,そうだ共産主義だといった感じで。
そういったいきさつで結成された政治団体が昭和研究会で,この中には実は吉田茂もいましたが,結構な共産主義者や社会主義者であろう人もたくさんいました。近衛文麿はこの政治団体を自分のシンクタンクとして政治活動を始め,やがて総理大臣にまでなります。
そして第一次近衛内閣の閣僚の今でいうところの官房長官に,先述の昭和研究会の一員であった風見章を就任させます。その当時の人からすれば,この人だれ?となったみたいです。
そういった感じで組閣された第一次近衛内閣は,組閣当初に治安維持法で捕まった共産主義者たちを恩赦しようとしました。さすがにこれはヤバいやろってことで実現できませんでしたが,第一次近衛内閣の最大の特徴と言えば,支那事変を拡大させたことでしょうかね。
盧溝橋事件って停戦ムードだったのですが,それを拡大して戦争にしたのが近衛内閣だったのです。また,中華民国政府を相手せずと言って,この戦争を止める気がないことを表明し,日本は泥沼の戦争へ突入し,こともあろうにソ連の五か年計画を模倣したとされる国家総動員法という悪法も施行され,日本は国家社会主義へと突き進むこととなるのです。
よくファシストということで,ドイツではヒットラー,イタリアではムッソリーニ,日本ではなぜか東条英機が挙げられるのですが,実は日本だったらファシストで紹介されるべきは近衛文麿なんですよね。
しかし,近衛文麿はなぜか平和主義者として教科書や授業では紹介されることが多いのです。なぜでしょうか。日本の教育の闇なのかもですね(笑)
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