今日は特に何もないのでいきなり本題に入ります。
今回のお話は後醍醐天皇。昨日の塾で話題となりました。
この天皇は「異形の天皇」と形容されるようにほんとハチャメチャな天皇でした。生徒たちにこの天皇のことを話すと例外なく喜んでくれます。
こんな楽しい天皇のことを中学校の歴史では建武の新政して失敗しましただけの紹介で,ほんともったいないです。
まずは教科書でよく見るこの肖像画。実はこれだけでも後醍醐天皇がいかにぶっ飛んだ天皇かわかります。
中華皇帝の帽子をかぶり,仏教の袈裟を着て手には五鈷杵(密教の法具)。すなわち,朕は中華・仏教・密教の長すなわち世界の中心だという表現でもあるわけです。ファンキーっすよね(笑)
後醍醐天皇は即位からも破天荒で,250年ぶりの後三条天皇以来の30代での即位でした。それまでの即位はもっと若かったのです。そして即位したら自分で後醍醐天皇と名乗りました。
普通,〇〇天皇の〇〇は崩御されてから諡(おくり名)として名前がつくのですが,後醍醐天皇は平安時代の醍醐天皇の政治を模範としており,それにあやかって自分を御醍醐と名乗りました。
そのうち鎌倉幕府から「アンタもうそろそろ天皇やめんばよ」と言われ(即位のときに期間限定でお願いねといわれていた)て「幕府のくせムカつく~!」となって鎌倉幕府打倒しようぜって感じで毎日飲み会を開きそこでワイワイしながら討幕計画してました。
その飲み会に幕府のスパイがどうも天皇が怪しい動きがあるといって忍び込み,討幕計画が判明します。後醍醐天皇は自分の部下のせいにして,自分は無罪となります。これがいわゆる正中の変です。
そのときに後醍醐天皇は詫びの手紙を幕府に送りますが,詫びというのは表面上で,実際には鎌倉の田舎もんで野蛮な奴らが政治なんかするなボケが!みたいな内容だったようです。
次に数年後,後醍醐天皇はまた討幕しよう(幕府からのやめてねの要請をずっと無視していました)とします。次は武力蜂起です。しかし,これも幕府によって阻止されました。
さすがに幕府はこれを許すわけもなく「アンタ2回目はダメって!」と言って,承久の乱によって流された後鳥羽上皇の先例に従って隠岐に流されます。
普通はこれで後醍醐天皇は歴史の表舞台から消えるのですが,これで終わらないのが後醍醐天皇。なんと隠岐から脱出するのです。
そしたら,後醍醐天皇を待っていた人たちがたくさんいたのです。その一人が足利尊氏(当時は足利高氏)。後醍醐天皇が京に戻ってきたらあっという間に鎌倉幕府は滅亡してしまいました。これがいわゆる元弘の変です。
そして,自分が政治してやるということで親政が始まります。これがいわゆる建武の新政ですが,鎌倉幕府が決めていたいろんなことを,綸旨という庶民(武士や農民など)からするとわけわからん決まりを押し付けられて,今までの決まりがほとんどチャラとなってしまいました。
そら日本国中混乱しますって。ですから,たった2年で建武の新政は終わります。挙句の果てに元々お仲間だった足利尊氏から攻撃されて奈良の吉野に逃げることになりました。これがいわゆる南北朝の始まりです。
このように波乱万丈という言葉ですら生ぬるいような人生でしたか,吉野に行ってすぐに崩御しました。
普通の天皇のお墓は南向きですが,後醍醐天皇は吉野から見て北にある京都への執着なのか自分の墓は北向きにするよう遺言に残しました。また,忌の際に「自分が政治したら日本は太平の世になるのに」みたいなことを言ったという記録があります。
まあ建武の新政のことを考えたらよく言うわとなりますが,おそらく後醍醐天皇は本気でそう思っていたのでしょね。
後醍醐天皇,英語表記は『GO DIE GO』。後醍醐天皇は自分の生きざまを英語でもぴったりとなる名前を偶然にしてもつけていたんですね。
恐るべき後醍醐天皇。部下には絶対になりたくないですけどね(笑)
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